
著者はイノベーションをシュンペーターに従い「創造的破壊」と定義し、イノベーションには破壊する側と破壊される側に分かれるとし、破壊される側のダメージは短期的で致命的なのに比べ、破壊する側の効果は長期的なスパンでゆっくりと社会全体に波及する、その時間的差異が大きな抵抗と混乱を生むと指摘している。その一方でイノベーションには「ラディカル(抜本的)・イノベーション」と「インクリメンタル(累積的)・イノベーション」があり、何もアメリカで独占的に起きるラディカル・イノベーションを目指す必要はなく、日本はインクリメンタル・イノベーションを継続的に行って破壊される側のダメージを分散させるべきだと説く。
私もほとんど同意見である。電子レンジもトランジスタも集積回路もGPSもインターネットも巨額の国防費を投じ、研究開発費も潤沢なアメリカだからこそできる。日本は高度経済成長時代にはアメリカの猿真似といわれようと、小さなイノベーションを累積的に行って、ホンダ車のような燃費のいいクルマを作ることができた。
おそらくオープンAIやグーグルのようなAI時代の「神々の戦い」に、日本企業が加わることはできないだろう。それならば、それらのテクノロジーを有効活用して、こつこつと改良を加えていく。それが現実的だと思う。
日本は資源の少ない国だ。ここに労働人口という資源の問題も加わる。著者の言うように、労働資源が少ないからこそ、省人化や自動化といった創意工夫が生まれる余地がある。
留保すべき点は、イノベーションのリスクの分散方法だ。著者はユニバーサル・ベーシック・インカムの導入にまで踏み込んでいるが、もう少し選択肢にはグラデーションがあってもいいと思う。大企業が多角的経営を維持してまで生産性の低い雇用までを守るのも、このグローバル社会では生き抜けないという現実もあるかと思う。