上巻326ページ、下巻372ページ

ベンチャーキャピタル(ベンチャー投資機関)のイベントに参加することがあるが、正直に言って辟易している。イノベーション(最近は生成AI一辺倒)の勝ち馬に乗り遅れるなと煽り立て、「トライ&エラーを繰り返し明るい未来を作りましょう」と唱和みたいなことを参加者にさせる。ごくまれに「ハルシネーション(生成AIの誤回答)」について言及するときも、それがいかに過渡期の問題であるかを説明するために俎上に載せる。最近、原爆を作ったオッペンハイマーの功罪についての議論が流行っているが、原子力の使用法について「トライ&エラー」を繰り返していたら、確実に人類は滅ぶではないか。極論だけれども。

だが、近年になって、歴史学者からも経済学者からも、イノベーションが必ずしも生産性を上げ、経済成長を促しているのではなく、むしろ労働者の雇用を奪ったり、酷使させたり、格差を拡大させたりしているという指摘がなされている。「農業革命は人類史上最大の詐欺」と力説したユヴァル・ノア・ハラリは異端児かもしれないが、戦争・革命・崩壊・疫病の「四騎士」がなければ不平等は拡大すると論じたウォルター シャイデル、そして今回紹介する『技術革新と不平等の1000年史』の著者・ダロン・アセモグル&サイモン・ジョンソンもそういった論者の一角だ。2人は農業革命も産業革命も生産性の飛躍的な向上を生み出すことはなく、むしろ大多数の労働者を酷使し、賃金は上がらず、民主主義をも破壊していると説く。

アセモグルらが「テクノ・オプティムズム(技術楽観主義)」の象徴的人物として登場させているのは、19世紀のフランス人実業家・レセップスである。レセップスはスエズ運河を開通させた大成功者であり、パナマ運河事業を破綻させた大失敗者であるが、スエズ運河の成功でさえ、浚渫船や掘削機の発明という偶然がなければ実現しなかった。そしてパナマ運河は2万2000人の犠牲者を出してもなお、実現しなかったのである。

レセップスは「天才は必ず現れる」という格言を信じ、壮大なビジョンを掲げ、人々を説得すれば、それを実現するイノベーターが付いてくると信じた。スエズ運河ではそれがたまたま現れたが、パナマ運河では彼が固執した海面式運河を実現するイノベーターはついに現れなかった。レセップスは失意のうちに死に、多くの負債だけが残った。

レセップスは「天才は必ず現れる」と信じたが、マイクロソフトのビル・ゲイツは「私に問題を見せてくれれば、それを解決するテクノロジーを探して見せよう」と豪語した。驚くべき共通点ではないか。未来のビジョンを掲げ、人々を説得すれば、解決するイノベーションが必ず現れるという楽観主義。

地球温暖化、石油や水資源の枯渇、そしてAIのリスク。これらの問題はやがてテクノロジーが解決してくれると、心のどこかで思っている。そんな私たちへの警鐘の書である。AIがわれわれの業界の付加価値を奪うのかという視点から、そして変えうる未来は何かという人類の視点からも、ぜひ読んでいただきたい。

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