株式会社日本印刷新聞社が2024年1月、倒産した。同社の元社員として、そして印刷業界の記者として、原因を分析したい。
私は2004年から約10年間、同社に在籍したわけであるから、僭越といわれようとも私自身も責任の一端を負うべきである。私は印刷業界各位のネットワークを構築できなかった。重鎮の方々との信頼関係も築けなかった。協調性があったともとてもいえない。最後は紙面責任者を任せていただいたが、同社の将来に見切りをつけ移籍してしまった。信用調査会社はよく経営環境および経営者にその責任を押し付けようとするが、社員・元社員にも大きな責任があると感じている。
移籍先で、日本印刷新聞の実発行部数を執拗に聞かれたが、彼らの想像する発行部数よりも一桁多かった。印刷業界の新聞社は8社前後あるが、発行部数でおそらく業界紙トップだった。社員数も多く、東京・中央区の日本印刷会館の家賃も高く、固定費がもっとも高かった。結果的に言えば、それが足かせになってしまった。
広告ベースの他紙と異なり、購読料の比率が大きい日本印刷新聞社は、簡単にネットニュースに移行し、無料で記事を配信することはできなかった。結果、既存の業界新聞社のニュースサイトどころか、個人事業主による新規のニュースサイトにもアクセス数で抜かれてしまった。簡単にいえばカニバリズムを恐れた結果、ニュースサイトへの移行が遅れてしまった。サイトが業界でもっとも貧弱と言われたのも、そういった背景がある。
日本印刷新聞社は、印刷業界のために、印刷媒体を提供する会社だった。だから印刷産業が絶好調な時はもっとも羽振りがよく、印刷産業が低迷に転じるともっとも早く(再建した新聞社を除く)倒産してしまった。
日本印刷新聞社は、業界新聞業界の諸先輩が構築したビジネスモデルの恩恵を受けてきた。新聞の定期購読制度は、今でいうサブスク型ビジネスのはしりである。名刺広告という仕組みも、固定フォーマットのためデザイン料なしで継続的な出稿が見込まれた。そしてカレンダー展、オフ輪協議会などの事務局運営の受託も、今でいうBPOのはしりである。先見の明のある諸先輩のビジネスモデルに依存していたことは否めない。
だが、印刷業界、カレンダー業界、オフ輪業界の低迷とともに、収入が先細りになってしまった。新しいビジネスモデルを描くことはできなかった。20年以上も業績の低迷に耐えていた同社に当てはめることに驚かれるかもしれないが、「成功体験の呪縛」のために、抜本的な業態転換ができなかった。
新聞媒体としては、すべてにおいて電子が勝っていたと、今になって思う。読者にとっては速報性に優れ、無料で、そしてカラーである。制作者サイドとしても、ワードプレスで原稿や写真をアップする方が、DTPで組版し、校正し、印刷所に立ち会うよりも簡単だった。せっかくカラーの全面広告が入っても、オフ輪で4版刷っていたため、逆さやになることさえあった。
私自身は日本印刷新聞の創刊の辞にある「業界の耳目たらん」という言葉を頼りに、取材し、記事を書いてきたつもりである。セオドア・レビットの「顧客志向ではなく、製品志向の会社は必ず衰退する」という言葉を引用するまでもなく、やはり印刷媒体という製品に固執した結果と言わざるを得ない。
業界の目となり耳となるという需要は、いまでもあると考える。僭越ながら今後も業界新聞社の活躍を期待する。